第13話【フローズン グローブ】

「ではこれから投薬を始めますね。最初は吐き気止めのお薬です。
最初にお薬についている名前がご自分のものか確認してください」

化学療法室はカーテンで仕切られていて、
それぞれに大きなリクライニングチェアと
テレビが備えてあった。
この病院では患者を確認する時に、フルネームと
生年月日を言う事になっている。
いつもは忘れていたが、目の前に出された薬を見て
この病院にいる、もう一人のO野K子さんをふっと、思った。

(お互い、頑張りましょう)

もう一人のO野さんが、どんな方で、どんなご病気なのかは分からない。
でも病気と闘う自分が、もう一人いるような気がしてちょっと心強かった。

「フローズングローブは使いますか?」

いよいよエピルビシンを投薬する段になった。
かき氷のいちご味のような色だった。
抗がん剤の副作用で爪が変色したり
割れてしまったりすることがあるのだが、
投薬時に手足を冷やすと予防効果があるらしい。
同様に口の中の口内炎予防のために、
氷をくわえて冷やしておくと良い、とも言われていた。

とりあえずどの程度の副作用が出るか分からないので、
やれるものはやっておこう、と思った。
ところが、これが思っていたよりかなりキツかった。
グローブが思いのほか良く冷えていて、
グローブを付けて数分もすると、
足の指が冷たさでジンジンと痺れてきた。
このままだと指がちぎれてしまうのではないか、と思うくらい痛み始めた。

右手の甲に点滴をしていたので、右手はグローブの上で
指を曲げる感じで爪を冷やしていた。
左手は、口の中の氷を補充しているので、
グローブの中から手を出したり、突っ込んだりしていたが、
手足につけたグローブと口の中の氷は
身体をすっかり冷えさせるのに十分だった。

「具合は大丈夫ですか?」

返事をする前にお腹の虫が鳴ってしまった。
これは予想外の状況だった。
寒すぎて具合が悪くなりそうだ。
それなのに昼食が少なすぎたせいか、
途中でお腹が減ってきてしまった。
寒くて、お腹が減っている。
ずばり、惨めな気分だ。

投薬による吐き気は感じなかった。
でもとにかく、寒くて、痛くて、ひもじい、惨めな気分。
イヤホンを挿したテレビを見ているのだが、集中などできず、
頭の中には、南極で底をついた食糧袋を
ズルズルと引きずりながら一人さ迷っている自分がいた。

『日本人はとかく我慢しちゃうんですよねぇ。
どうしても無理な時は無理、って仰っていただいて良いんですからね』

さっき説明をしてくれた薬剤師さんの顔がグルグルと回る。
薬剤師さんの顔と一緒に、もう、グローブを外してしまおうか、
でも、これを我慢したら爪の変色が防げるのだ!という気持ちも
交互にやってくる。

女子力低めの私が一つだけ褒められてきたのは
健康的で艶やかな爪。
「手はしわしわだけど、爪はきれいだね」と
思えば妙な褒められ方をされてきた。
でも今はそれだってできるなら守りたい。あぁ、でも寒い。
気が遠くなるような時間だった。

結局、投薬は1時間15分ほどで終わった。
途中でグローブの冷たさは和らいでいたのだが、
すっかり身体は冷え切っていたので、
超ダッシュでトイレに駆け込んだ。

1回目はなんとか乗り切れた。

投薬自体で具合が悪くなることは幸いなかったが、
副作用を抑えるための作業で具合が悪くなっている。

人からみたら可笑しいかもかもしれないけれど、
でも頑張れるなら、多少の無理はしちゃうのよ。
だってやっぱり女子だもの。

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