第1話【乳腺外来】

「社長、急で申し訳ありませんが明日、午前休をください。」

4月の最後の木曜日、私は社長の顔色を伺いながらこの何日か気になっていたことを一気に話した。

数日前、シャワーを浴びている時に
右胸にシコリがあることに気付いたからだ。
忙しいから、と体のことはついつい後回しにしてしまい、私はもう何年も婦人科検診を受けてない。

「乳腺症だと思われます。
心配はないと思うけど、定期的に検診は受けてくださいね。」

最後に検診を受けた時そう言われていたが、社長と私しかいない小さな会社では休みが取りづらかったことと、やはり検診で行うマンモグラフィーの痛みを思い出すと、何だかんだ理由をつけて逃げていた。

また痛い思いをするかと思うと乗り気ではなかったが、今回は病院に行ってみようと思った。

翌日はどんよりとした曇り空だったが、自宅付近でいかにも女性がくつろげそうな綺麗なAレディースクリニックをすんなり予約できたこと、
朝は少しだがいつもよりゆっくり眠れたことにむしろ心は軽かった。

「今回も乳腺症、心配ない。とっとと終わらせて事務所に向かおう。」

初めてかかるそのAクリニックは朝から混んでいた。
受付で初診であることを告げ待合室の空いている席を探していると、
パソコンの予約内容を確認していた人の良さそうな係りの女性が
申し訳なさそうに私の名前を呼び、ちょっと困ったような、
でもしっかり伝えなければ、と言う表情で話かけてきた。

「O野さん、ご自分でシコリが認識出来るんですね」

「はい。もうずっと検診受けてなかったのもあったので、
ようやく重い腰を上げた次第です。はは。」

私は叱られる前に白状してしまえ、とばかりに長いこと検診をサボっていたことも笑って付け加えた。

けれども彼女は真剣な顔で、声を潜めて話を続けた。

「ご自分で認識出来るなら、多分、シコリはあるんだと思います。
でもそうなると、乳腺外来がある病院でないと詳しく検査出来ないんです。
ここで診察受けて頂いても、うちの先生も紹介状を書くしか出来なくて。
そうなるとお金だけ掛かってしまうので、最初から乳腺外来のあるところで受けられた方が良いですよ。」

『乳腺外来』

そうだ。水曜に電話で話した母が確かそんなことを言っていた。

乳癌検診で要精査と言われた場合や、明らかに乳房に異常を感じた場合に受診するところは婦人科ではないのよ。
間違えないでね。」

普段から話を半分しか聞いていない、とよく叱られるのだが
今回も大事なことが抜けていた。

今回の予約はキャンセルにしておきますから、と見送ってくれた受付の方に私はお礼を言い、クリニックを出ると同時にスマホで乳腺外来のある病院を検索した。

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第2話【紹介状】

出来れば休みをもらった今日中に診察を受けたい。
改めて休みをお願いするのは、色々と面倒だ。
でも近くにあるだろうか。あっても予約が取れるだろうか。

祈るように検索エンジンに「乳腺外来」と希望の地域を入力した。

「あった。B医院」

ラッキーなことに駅の向こう側にあった。
早速、電話してみるとベテラン風の明るい女性の声が聞こえた。

「どうされましたか?」

私は数日前に気付いたことと、今日の経緯を話した。

「それなら当院の受診ですね。
今日の予約を入れますので、お名前をフルネームで頂けますか」

「O野K子です」

「あら、O野さん?この前いらっしゃたばかりですよね。」

「いえ、初めてです」

少し間があった。何かガサガサ書類をめくるような音が聞こえた。

「申し訳ありません。では生年月日もお願い致します。」

ついさっき自分も受診科を間違えたので人のことは言えないが
随分とおっちょこちょいな人だ。

午後の診察が15時からだったので、私は急いで事務所に戻り、
昼食を片手に仕事をやっつけ事情を説明して早退させてもらった。

少し早めに着いたB医院は賑やかなK商店会を抜け、静かな住宅街が始まるところにあった。
広めの待合室には他の受診者はまだいない。
ガランとして静まり返った待合室の窓から見える曇り空に、朝とは違って私はなんとなく憂鬱を覚えた。

自分のミスだけれどバタバタして疲れた。
でももう少しで終わる。

「身内に乳癌経験者がいるのに定期健診を受けていなかったのかい?」

半ば呆れたような声を出したB院長は、50代くらいの男性の先生で、すぐにマンモグラフィーとエコー検査を始めた。

マンモは何回か更衣室から呼び戻され角度を変えて撮影をした。

その度に胸を挟まれ痛い思いをするわけで、何のために今まで色々理由をつけて検診を避けてきたのか考えるとちょっと情けなかった。
こんな思いをするくらいなら来年からはキチンと受診しよう。

通常であればこんなに何度も撮影することはないはずだ。

なんとかかんとか検査と着替えを終えて待合室でほっとしている時に、
ふと院内の貼紙が目に入った。

『シコリや痛みのすべてが乳癌とは限りません。
一人で考え込まないで、きちんと病院で検査を受けましょう』

そんなような内容だったと思う。

100人シコリが見つかっても最終的に乳癌と診断されるのは5人もいない、と昔、聞いたような気がする。
私もそうだ。くじ引きだってあたらないのだ。
そんな確率の少ないものにあたるはずもない。気楽に考えていた。

「右にシコリがあると言っていたけれど、左にもあるの、自覚ないんだね?」

検査の写真を見ながら先生が言った。

「はい。言われるとエコーの時にちょっと違和感を感じましたが…」

先生はその問いに対してすぐには反応せず、写真を見ながら頭の中で何かをまとめているようだった。そして続けた。

「そうですか。右側のシコリも左側のように、もう2年早く見つけられると良かったです」

今回も乳腺症と言われるだろうと信じ切っていたからか、疲れてしまっていたからか、先生が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。ただ、早く安心して帰りたい。

私は先生の言葉の意味を確認しようと、座り直し身を乗り出した。
その時、すでに作成されていた診断書の文字が見えた。
そしてようやく自分の状況が理解できた。

『両側乳癌の疑い』

泣いていたのだろうか。あまりに想定していなかった事態に言葉が詰まってなかなか出てこない。
先生はうちの病院でも治療出来るが、身内がかかっていた病院が良ければ紹介状を書く、どこの病院か、
と聞いているようだったが展開が早すぎて頭がすぐに反応できない。

看護師さんが落ち着くまで、と別室に案内してくれた。
少し時間をもらい母に電話をし、同じ病院に行くべく病院名と主治医の名前を確認した。

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第3話【患者確認】

希望のC大学病院はB院長の出身病院だった。
母が治療していたのは25年も前だったので、主治医は定年退職されていたが、院長は懇意の医師に電話をかけてくれた。
初診は4日後。
気持ちも落ち着き、私は何度もお礼を言って、紹介状とマンモグラフィーの写真を持ってB医院をあとにした。

C病院初診の日、私は母に同行を頼んだ。
先日のようにコトがどんどん進んでは、今の私には予備知識があまりになさすぎて不安だった。

待ち合わせた母の顔色は私より悪いように見えた。
昨日は眠れなかったらしい。
今日母に同行を頼んだことを私は少し後悔した。

初診受付カウンターへ紹介状と必要資料を提出して待合室の席に腰かけると間もなく名前を呼ばれた。

随分早いな、と思った。

「確認なのですが、当院の受診は初めてですか?」
「はい。初めてです」
「○○クリニックの受診はありますか」
「ありません」
「××センターの受診はありますか」
「ありません」
「分りました。生年月日をお願いできますか」

生年月日を告げると、ではカルテと診察カードを作りますのでお席でお待ちください、とのこと。
受診歴の有無を聞かれた医院は全てC病院の関連機関だ。
初診問診票にもその旨、記入したはずなのだが。

受付のやり取りを腰かけて見ていた母になにごとか、と問われ説明しようとした時、ふと、初めてB病院を予約した時の会話を思い出した。

『あら、O野さん。この前いらっしゃったばかりですよね』
『いいえ、初めてです』

その時、もしかして、とある考えが頭をよぎり、ドキリとした。

数分後、改めて受付で名前を呼ばれ手渡された真新しいプラスチックの診察カードが、私のもしや、が当たっていたことを示した。

そこには赤い文字で印字されたシールがしっかりと貼り付けてあったのだ。
『同姓同名あり』

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